星が好きになったころ



小学生(昭和30年〜36年)、中学生時代の興味の中心は植物だった。そのころ住んでいたのは練馬区の大泉学園。まだまだ自然が豊富な時代だった。学校が終わるとカバンを放り出して竹で編んだ野冊(やさつ)と根堀(ねほり)と胴乱(どうらん)を持って近くの白子川へ向かった。この
3つは植物採集の3種の神器だ。持っているだけでいっぱしの植物博士になった気分になれる。牧野富太郎博士【1862年(文久2年)〜1957年(昭和32年)】の写真を児童文学で知っていてその姿が実にかっこ良かったのだ。10歳より寺子屋で学び12歳で小学校に入り2年で中退した博士であったが、最終的には東大の植物学の博士になっていた。そんな姿に憧れてもいた。白子川でこんな出来事があった。自転車でいつものように植物採集に出かけた時、川岸の道の真ん中に青大将がとぐろを巻いて鎮座していた。驚いて避けようとした瞬間、自転車と一緒に宙を飛んでいた。気がついたときには土手にしがみついていて自転車は川に落ちていた。かっこ悪いけどMIのトム・クルーズみたいだった。
採集した植物をすぐに新聞紙にはさみ野冊でしっかりと押さえ込む。家に帰ってから植物図鑑を広げて名前を調べた。こどもにしては大層な大判の牧野新日本植物図鑑を両親が買ってくれていた。今はだいぶぼろぼろになってはいるがいまだに使っている。日に日に採集した植物も増え、いつのまにか数百種の植物を数えていた。小学校5年(昭和34年)のころ、それをまとめて夏休みの自由研究として提出したことがあった。それが学校に認められて、全校生徒の前で発表する羽目になる。講堂の一段高いところからの発表は頭に血が昇っていて何をしゃべったのかはっきりと覚えていない。それでも好きだった植物でこんな栄誉を得たことで自信がついたのは確かだった。
牧野博士がここ大泉で息を引き取ってから数年が過ぎていた。家は地元の大泉学園で乾物屋を営んでいた。父は毎朝リュックを背負って夜が明けきらぬ暗いうちから家を出て築地に買出しに行っていた。時々いっしょに連れて行ったもらったこともある。そんなときは大きなチョコレートを買ってもらうのが楽しみで、眠い眼をこすりながらもついていったものだ。茅葺の母屋がお店と住居を兼ねていた。お店にはいろいろなものが置かれていた。佃煮や漬物、鰹節、しょうゆ、みそ、昆布など日常必要なものは大抵置いてあったと思う。ガラス蓋をした四角い木箱や大きなガラス瓶が店いっぱいに広げられ、品物ごとに分けられていた。漬物などはほとんど自分の家で漬けていたのを覚えている。当時、畑もやっていてそこで野菜や陸稲を作っていた。物置には鍬(くわ)や鋤(すき)や鎌(かま)、それに「脱穀機」や脱穀したもみがらやわらを飛ばす「唐箕(とうみ)」や「箕(み)」なども取り揃えてあった。夏の暑い日に草取りをときどき手伝わされたが、これがいやだった。それでも汗をかいた後のアイスクリームの味は格別だった。大きな樽に自家製のダイコン、ナス、キュウリ、白菜などを漬け込んで売っていた。いまだに母はその当時の糠(ぬか)で漬けている。糠は年を重ねるほどいい味を出してくれるものらしい。毎朝かき回さないとすぐにカビが生えるということで、旅行に行く時には塩を大目に上からまいてカビが生えるのを防いでいたように思う。最近、家でも試してみるのだがいつもカビを生やかしてしまう。こればっかりは母にはかなわない。母屋の裏には大きな欅(けやき)の木と鶏小屋兼物置があって、欅は平屋の茅葺屋根を越えて高くそびえ立っていた。近所の人たちには茅葺屋根と欅でその存在が知られていた。屋号は「末広」。祖母の時代には小料理屋をやっていたその名をそのまま受け継いだのだ。祖母は三味線を弾いたり、手回し式の蓄音機(レコードプレイヤー)を使って、三つ歳下のぼくの妹に日本舞踊などを教えていた粋なおばあさんだった。音が間延びしてくると、手回しを速めて音を元に戻すのだがその音の変化が何ともおかしかった。そんなときも踊りがみだれないように扇子で調子をとり歌を口ずさみながら手取り足取り、妹に稽古をつけていた。妹も踊りが好きだったのだろう。女の子がひとりということもあって祖母は妹を猫可愛がりにかわいがっていた。祖母の言うとおりに妹も何度も練習に励んでいた。近くのお寺で縁日があるときには掘っ立て舞台が作られて歌や踊りなどが披露されたものだった。そういうときは必ず妹も踊りに出演していた。ぼくや三つ上の兄はソースせんべいやゲソの串刺しなどを食べたりして、ちょっと恥ずかしさと誇らしさの混じった気持ちで横目で眺めていたものだった。このお寺には大いちょうがあって、ぎんなんをよくつける大木だった。秋の晴れた朝方にかごを持ってよく採りに行った。実の方は食べずに、水につけたり土に埋めたりして腐らせて種を取り出して食べるということを誰が考えついたのか感心してしまう。人間、どんなことでも最初に行動した人は実にえらいと思う。いちょうは24〜5年しないと実をつけないというから、すでにそのいちょうも長老だったのに違いない。
兄と僕とで母屋の隣にあった当時使ってなかった部屋を勝手に自分たちの研究室にしていた。研究室といっても、兄が捕ってきた蝶の標本作りや僕の植物標本、それにビーカーや試験管などが無造作に置かれた物置に過ぎない。それでもそこにいるだけで科学者になった気分。


 話は高校時代(昭和39年〜42年)に移る。昭和39年(1964年)には東京オリンピックが開催され、昭和41年(1966)年にはビートルズが初来日した。
近くの高校に無事入学できた喜びも手伝ってか、一年の夏休みに中学時代のブラバンの友人と旅行に出かけることになった。それまでの旅行はいつも両親といっしょというパターンであったから、友達との二人旅は期待と不安でいっぱいだった。能登の輪島に中学時代のブラバンの先生が転勤になったので、そこを訪問しようということだった。その先生、バリトンのいい声の持ち主で音楽の時間はいつもその魅力的な歌を披露していた。僕はブラバンではホルンを吹いていた。自宅ではトランペットを買ってもらい、「ミュート」という洒落た名前ではなく当時「弱音器」と呼んでいたものをラッパの先に差し込んで年中鳴らしていた。音はいくらか小さくなったものの、それでも音はでかい。家族はもちろん近所の人もはなはだ迷惑なことだったろう。
友達もぼくもはじめての旅行ということもあって、両方の両親が寝台列車の見送りにわざわざついてきた。今時の若者には馬鹿にされそうなほど親離れしていなかった。出発のベルがなると永遠の別れでもないのに何だか涙が出そうなのを抑えて列車に乗り込んだのだった。

三段式の寝台車に寝転がりながら、これからどんなことが起こるのか、ちゃんと向こうに着けるのか心配しながら、窓際のカーテンを少しあけて寝付けぬ夜を過ごした。遠ざかる町の明かりがいっそう心細さを増長する。それでも何とか夜が明け、空が白んでくると元気が出てきた。輪島に着くと先生が待っていてくれて、自家用車で自宅まで連れて行ってくれた。その車、魚の臭いがしてちょっと気持ち悪い。家に着くと先生の奥さんが出迎えてくれて、これからの一週間が始まることになる。
輪島の朝は魚の町だけあって活気がある。朝市や輪島塗の工房を見学したり、千枚田、時国家の屋敷を見物したりした。あるとき夜釣りに行こうかということになり、近くの海へ出かけていった。釣りは好きな方ではなかったので、あまり気乗りはしていなかった。波が寄せては返す突堤に座り込み、ランプの明かりを頼りに仕掛けのしかたを教えてもらい夜釣りを始める。先生は毎日のように釣りができてこの転勤を喜んでいるようだった。まるで「釣りバカ日誌」の世界である。
ほたるいかが波間にときどき淡い光を放っている。体長
45センチの小さい体のくせに体の中には1000個もの発光器を持っていて青白い光を放つ不思議な動物。きれいだと思った。それまで光るものは蛍くらいしか見ていなかったから、海でこんな光景を目にするとは思ってもいなかったのだ。夜釣りよりもその明かりに見惚れていた。ふと何気なしに天を見上げたとき、それ以上の驚きが待っていた。空が星で埋め尽くされている。話には聞いていたが、天の川も見えている。「何てきれいなんだろう!」。そのころのぼくは星座は何も知らなかった。学校で習ってはいたが興味がなかったせいでオリオン座やさそり座がいつ見えるのかも曖昧だった。そのとき急に星へ興味が芽生え、星について知りたいと切に思った。感激を胸にいっぱいつめてその日の夜釣りが終了する。どんな魚の収穫があったのかは覚えていない。というより興味は星に移っていた。

次の日、近くの本屋へ飛んで行った。文房具も一緒に売っている小さな本屋であったが、何か星に関する本がないかと探していたら、「子供の科学」の夏休み特別号が目に留まった。天体観測の特集号だった。さっそくそれを購入して家に飛んで帰った。そして何しに能登までやってきたのかも忘れて夢中で読んだ。星座の見つけ方やギリシャ神話など知りたいことは大抵載っていたので一気に読んでしまった。「先生、夜釣りに行こうよ」と心に思ってもいないことを頼んだ。そして夜釣りのときには必ずその本を持っていき、はじめての星座を本と見比べながら形作っていった。北斗七星が想像していたものより大きかったことや、夏の大三角を見つけたり、織姫と彦星の星の間に天の川が流れていること、さそり座の雄大な姿、天の川の上を優雅に飛んでいる白鳥の姿、そして流れ星などに胸を打たれた。その日はちょうどペルセウス座流星群の極大日だったのだ。
このときの思い出はいまだに目の前に思い出すことができる。これが星への興味の入り口だった。いまだにそのときの感動は失われていない。輪島にはその後訪れていないが、たぶんあまり変わってないのだろうなと思う。変わってほしくないという気持ちが強いからこう思うのかもしれない。

 大泉の実家は、茅葺の家を壊して、そこに三階建ての貸しビルを建てた。裏の欅の大木は切られ、一番太いところが臼に変わった。住居は裏手に移動してそこに住むことになる。庭の一角には手作りのスライディングルーフの天体観測所を作った。観測の時に屋根だけを開けられる観測小屋である。台風のときなどその屋根がよく飛ばされて往生したのがなつかしい。
人間世界は変わっても、星は今も変わらない世界を見せてくれる。昔々、中国では不老不死を願って妙薬を探していたという。妙薬を手に入れて不老不死になったとき、果たしてそれが幸せなのかと思ってしまう。自分だけ長生きをして、回りをみれば知らない人だらけという
SFの世界ほどぞっとすることはないだろう。
能登輪島の星空に魅了され星に導かれて40年も経とうとしている。星も眼で見るよりも、デジカメで写真を撮ることが多くなった。植物も採集するのではなく写真に記録して楽しむようになった。昭和33年に333メートルの東京タワーができ、白黒テレビが一般家庭にやっと出回るようになってから世の中の変化はその速さを増している。当時テレビを持っている家は少なかった。力道山が一世を風靡していた時代だ。テレビのある親戚の家に家族で上がりこんでは夢中になって眺めていた時代だ。東京タワーのイメージも最近読んだリリー・フランキーの「ぼくとオカンとオトンの世界」や江国香織の「大学生と主婦の恋物語?」とは違って、西岸良平の「三丁目の夕日」の世界と完全に一致する。
パソコンなんて当時思いもよらなかった機器が今は氾濫している。そんな中にあって、あのころののんびりとした時間の流れをなつかしく思う年代になったと最近よく思う。知人であるアフリカに調査に出かける大学の先生は、向こうに行っている時にはパソコンをいじる気がしないとよく言っていた。文明と隔絶したとき人間は何を考えるのか。それは昔僕が能登で味わった星空から受けた理屈抜きの自然との一体感と同じではないだろうか。文明世界に立ち戻ったときパソコンがないと仕事が進まないのも事実である。それだから星を見ているときぐらい夢を見ていてもいいのではないだろうか。星を見る。あのときのなつかしい感情が蘇ってくる。それが何にも増してうれしい。庭の片隅で家庭菜園をしている。子供の頃いやだった土いじりも今は大好きになっている。不思議なものだ。小さいときのほんの小さな経験が僕の実となって今も息づいている。

記:2006/6/27