スローライフ



最近流行の言葉であるが、この言葉の響きはなかなかいい。生活にゆとりを持ちたい、趣味を生かした生活、考えに耽る時間、野外での自然との触れ合いなど、スローライフという言葉に含まれている。最近、二つの本を読んだ。どちらも同じ著者、乾正雄さんの本だ。本を手にとってみるとき、まず題名が気にかかる。この二つの本はそんな衝動にぴったりと当てはまっていた。「夜は暗くてはいけないか」の方が早く出版されていて、それを補うような形で「ロウソクと蛍光灯」が出されている。星をやっている人間にとって常に空の暗さと向き合っている。そんな自分と相性がいいのだろう。文学、映画、建物、明かりと暗さを求めての旅物語である。
子供の頃、よく庭で焚き火をした。いつまで見ていても飽きない。檜(ひのき)はよく燃えたのを覚えている。「火の木」とはよく言ったものである。これが明かりのはじめかもしれない。そしてロウソク。雷が落ちて停電になったときは急いでロウソクを探す。机の上に一本のロウソクが灯る。家族でその明かりを見つめる。静かな時間が流れているのを感じる。時間が止まっている感じだ。
明かりはいよいよ明るい方へと進む。建物のライトアップ、家庭内でも昼間から明かりが点いている、パソコン画面に張り付いての毎日、そんな生活が日常となっている。そんなときにふと、明かりを消して夜空を眺める。月明かり、星明かりというものを感じる。江戸時代には行灯という日本独特の明かりがあった。これは手元を照らすものであって部屋全体を明るくするものではなかった。暗さと明るさの微妙なバランスの中に物の深みが際立ってくる。一様に明るい元では陰影は消えうせのっぺらぼうの世界になってしまう。ちょうど満月を望遠鏡で見たときにクレーターが高さの無い平面状に見えるのと同じである。
障子、外の明かりを和らげる作用がある。障子に映った木々の影絵もいい。ちょっとしたところに眼を向けると安らぎを与えるものはいっぱいある。
今はどうか分からないが、教会の祭壇の向こう側は東に面していたという。そこには明り取りの窓があって、その前で牧師が説教をする。朝日が牧師の後ろから後光のように射す。神々しい雰囲気をかもし出す憎い演出である。
明るさと暗さの並存を感じられる世界がすなわちスローな時間を感じるときだと思う。生活に明るさをではなくて、暗さを求めるとちょっと違った風景が見えてくるようだ。
記:2006/9/7